大阪高等裁判所 昭和49年(行ス)7号 決定 1974年7月18日
相手方 李撤洙
抗告人 大阪入国管理事務所主任審査官
訴訟代理人 陶山博生 他三名
主文
本件抗告を棄却する。
抗告費用は抗告人の負担とする。
理由
一、本件抗告の趣旨及び理由は別紙記載のとおりである。
二、当裁判所の判断
(一) 相手方の経歴及び本件退去強制処分の経緯
本件記録によれば、相手方は、一九五四年(昭和二七年)七月一日韓国慶尚南道釜山市東区水昌洞一〇一一において、いずれも韓国に本籍を有する父李龍和、母朴浩伊の二男として出生し、同市の中央国民学校、釜山中学校を卒業後昭和四五年四月慶南商業高等学校に入学したが、同四六年四月には同校を中退し、同年五月上旬頃有効な旅券又は乗員手帳を所持することなく、韓国三干浦港から小型木造船に乗船して同月二〇日頃大阪港に到着上陸し、以て出入国管理令(以下、令と略称する)第三条の規定に違反して本邦に入国し、その後、京都市八条西京極所在の大城蒸工場で住込工員として勤務し、更に同市内の染色工場を転々として昭和四八年五月から同市内の富田染工場で住込工員として勤務していたところ、昭和四九年二月四日大阪入国管理事務所入国警備官により右不法入国の事実を探知され、同日令第三四条に基く要求収捕により身柄を収容されたうえ、同所入国審査官の審査を受け、同月一四日令第二四条第一号に該当する者と認定されたのに対し、令第四八条に基き口頭審理を要求し、同所特別審査官による口頭審理を受けたが、同月二〇日認定に誤がないと判定され、更に同日令第四九条に基き法務大臣に対して異議申出をなしたが、法務大臣は同年三月八日相手方の異議申出に対して申出は理由がない旨裁決したので、同所主任審査官は右裁決の結果を同月一二日相手方に告知すると共に退去強制令書を発布(以下本件処分と略称する。)し、同月二〇日同所入国警備官が令第五二条第三項に基き同令書を執行して相手方を大村入国者収容所に収容し現在に至つていることが疎明される。
(二)執行停止の要件
1 抗告人は、本件処分の執行によつて相手方に回復の困難な損害が生ずることはないと主張するのであるが、相手方の提起した本件処分の取消請求訴訟事件の判決確定前に右退去強制令書に基く送還が執行された場合には、相手方は事実上本案訴訟を維持することができないという回復困難な損害を生ずるおそれがあるのみならず、たとえ右訴訟で勝訴しても回復困難な損害を生ずるおそれがあり、しかもこれを避けるべき緊急の必要があることは、右送還の性質、相手方の従来の生活歴、年令、資産状態に鑑みれば容易に推認されるところである。
2 次に、本件退去強制令書に基く送還部分が執行を停止されることは、出入国管理行政を著しく阻害し、ひいては公共の福祉に重大な影響を及ぼすものとする抗告人の主張も首肯しえない。けだし、一個人の強制送還の執行を停止されることだけの理由で出入国管理行政に重大な支障を生ずるものとはいえず、しかも、本件疎明資料によれば、相手方は染色技術の習得を目指して真面目に稼働していたことが一応認められ、不法入国の件を除いて、在日中罪を犯したこともなく、又我国にとつて好ましくない行動をとつたという証拠もないからである。
3 更に、抗告人は、相手方の本件執行停止の申立は、「本案について理由がないとみえるとき」に該当する、と主張する。しかしながら、令第四九条に基く異議申出に対する裁決に当り、法務大臣は令第五〇条第一項第三号の特別在留許可を与えるか否かについて自由裁量権を有することは所論のとおりであるが、裁量権の範囲を逸脱している場合には司法的救済を肯認すべきであり、本件において法務大臣が右特別在留許可を与えなかつたことが裁量権の範囲を逸脱しているか否かは、相手方の本邦入国の目的及びその後の生活態度、従来の同種事案についての慣例、取扱例等を考慮して判断すべきであるところ、現段階においては法務大臣の前記裁決が裁量権の範囲を逸脱していないことにつき疑の余地がない程明白であると断定することはできない。したがつて、法務大臣の前記裁決及びこれを前提とする本件処分が適法であることは断定することはできず、未だ「本案について理由がないとみえるとき」に該当するものとすることはできない。
4 以上の次第であるから、相手方の申立は強制送還部分に限り本案判決が確定するまで停止を求める限度において理由があり、これと同趣旨の原決定は、「本案について理由がないとみえるとき」には該当しないことについて判断していないが、結局相当であつて、本件抗告は理由がない。
よつて、本件抗告を棄却し、抗告費用は抗告人に負担させることとして、主文のとおり決定する。
(裁判官 柴山利彦 弓削 孟 篠田省二)
別紙
抗告の趣旨
一 原決定のうち、抗告人が昭和四九年三月一二日付をもつて相手方に対し発付した退去強制令書の執行を強制送還部分に限り本案判決が確定するまで停止した部分を取り消す。
二 相手方の本件執行停止申立てを却下する。
三 本件抗告費用は、相手方の負担とする。
との裁判を求める。
抗告の理由
原審における意見書を援用するほか次のとおり補足する。
一 原判定には次のとおり行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)二五条の解釈を誤つた違法がある。
行訴法二五条は、執行停止の要件として回復困難な損害を避けるための緊急の必要があること(第二項)を定めるほか、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれのあるとき、又は本案について理由がないとみえるときには執行停止することができない(第三項)と定めている。
しかるに原決定は「申立人が前示収容所から韓国へ送還される事態が生ずるときは-右事態の発生は時日の問題である-申立人の提起した本案訴訟がその目的を達し得なくなることは明白であり、かかる結果の招来を避けるためには、少くとも強制送還部分の執行を停止すべき緊急の要性があることはいうまでもないから、このような場合は、請求の理由の存否について判断するまでもなく強制送還部分の執行の停止を許すべきであり」として、行訴法二五条三項所定の要件については全く判断の必要がないものと独断し同項を無視して執行停止決定をなしている。
かりに原決定の言う如く単に「事態の発生は時日の問題である」との理由からかかる決定が許されるものであるならば、およそ退去強制令書(以下「退令」という。)を発付された者は、強制送還予定日直前に至つて、抗告訴訟を提起し退令執行停止申立を行ないさえすれば、本審について理由のないことが明白な事案であつても執行停止(送還停止)決定を得ることができることとなり、かくては行訴法二五条一項が定める執行不停止の原則は空文に帰すこととなり、濫訴の弊を招来助長することは必至である。
そして、出入国管理令(以下「令」という。)は退去強制処分について、違反調査から審査、口頭審理を経て法務大臣裁決に至る審級的事前不服申立制度を定め処分の公正を期しているにも拘らず、原決定の如き法解釈が許されるならば執行停止制度の濫用により強制送還は事実上不可能となるに至り出入国管理行政はまつたくその目的を達成し得なくなることも明白である。
したがつて、原決定のおかした行訴法二五条解釈の誤りは到底看過しがたいものと言わざるを得ず、原決定はすみやかに取消されるべきものである。
二 本申立はその本案について理由がないとみるときにあたるものである。
1 相手方はその本案において退去強制令書発付処分の取消しを求めているものと解されるが、その請求は次のとおり理由のないものである。
すなわち、相手方にかかる本件訴状及び執行停止申立書にも明らかとおり相手方が不法入国者であることは争いのない事実である。
また、令四九条五項によれば、主任審査官は法務大臣が異議の申出は理由がないと裁決したときには退令を発付しなければならないのであるが、相手方に対しかかる裁決がなされたことも、また争いのないところであるから、本件退令発付処分に何ら違法を言う余地はなく、本案について理由がないことは明らかである。
2 かりに、本案請求の趣旨を在留特別許可が与えられなかつた点に法務大臣の裁量権逸脱ありとし、これを理由に裁決の取消しまでをも求めようとしているものと解しても、次のとおりその主張は理由がないものである。
相手方は、韓国で出生し成長した韓国人であつて昭和四六年五月二〇日頃本邦に不法入国するまでまつたく本邦に居住したことのないものであつて、本邦への定着度の甚しく低い最近の不法入国者である。かような定着度の低い者に関しては、例えば米国においては、不法入国者に在留を許可するにあたり、他の要件がすべて充足されていても、入国後七年以上経過していない限り許可を与えることを禁じられていること(米国移民及び国籍法二四四条a項一号)も参照されてよいであろう。
また、相手方は単に本邦における出稼ぎを目的として不法入国した者であつて、送還により生命、身体、自由に危険が及ぶ特段の事情は存しない。
相手方の父及び兄が本邦に居住するが、いずれも不法入国者又は不法上陸者であり、現在大阪入国管理事務所において退去強制手続中の者であつて右両名が不法に在留している事実は、何ら相手方の本邦在留の必要性を示すものとは言えず、
また、相手方は独身男子で既に十九歳に達しているもので本国には母、姉、弟等が居住しているのであるから、帰国して十分自活可能なものである。
もし染色技術の習得を目的とするのであれば、帰国して改めて自国政府から旅券の交付を受け、正規に査証及び入国手続をとり入国すべきものであつて、現に多数の韓国人が右により正規に出入国しているのである。
相手方の場合も、送還後一年以上経過すれば本邦入国について特段の支障はなくなるものであるから(令五条一項九号)、何ら染色技術習得のため引続き在留せねばならぬものではない。
以上のとおり相手方について令五〇条による在留特別許可すべき特段の事情はないのであるから、その裁量の範囲を誤つた違法があるとするその本案は明らかに理由がないものである。
三 本件申立は、次のとおり回復困難な損害を避けるため緊急の必要があるときにあたらず、また公共の福祉にも重大な影響のあるものである。
1 ひとくちに退去強制といつても、正規の手続により許可を受けて入国し相当期間在留後に退去強制される場合と不法入国者が退去強制される場合とでは、その在留に関する利益の性質は全く異なるものである。
すなわち、前者の場合は退去強制により嘗て適法であつた在留を継続する利益を喪失するのに対し、後者(不法入国者)にあつては、不法入国という違法行為により開始され継続して来た法令上保護に価しない在留が行政措置により排除され(単に違法行為以前の原状が回復されるにすぎないのであつて、本来この場合の退去強制には非難、制裁の要素ないし契機が存しないものである。
つまり後者(不法入国者)の場合の利益は、みずからの違法行為により違法に獲得した利益及びそれに付随する利益、換言すれば、本来当初から喪失されるべき利益を確保しようとしているのであるから、前者とは当然に峻別されるべきであり、したがつてこれに対する措置も両者の間において当然異つてしかるべきである。しかるに単純に送還により失なわれる利益或は受ける損害と一律に理解し、執行停止することはこの間に存する大きな差異の認識を欠くものと言わざるを得ない。すなわち、不法入国者については、他の場合以上に厳格に取扱うべき理由及び基本的要請があり、なかんずく相手方のような定着度の低い不法入国者についてその要請が強いにもかかわらず、安易な執行停止により本案判決確定までの相当長期間にわたる在留を継続することは、外国人の出入国の公正な管理を目的とする出入国管理行政を著しく阻害するものと言うべく、前述の濫訴の弊害を併せ考えるならば、公共の福祉に重大な影響を及ぼすことも明らかである。
2 相手方は染色技術習得のため引続き在留する必要をもつて申立の理由とするが、これは何ら緊急の必要性を示すものではなく、また、前述のとおりそのために改めて正規に入国することも可能であるから、回復困難な損害を生ずるものとも言えない。
3 原決定は相手方が送還されると、本案訴訟がその目的を達しえなくなることは明白であり、かかる結果の招来を避けるためには少くとも送還部分の執行を停止すべき緊急の必要性があるとするが、まず、本案訴訟の追行は代理人が選人され、現に相手方本人が大村収容所に収容されていても大阪において行なわれているのであり、更に、相手方が韓国に送還されても同様に訴訟追行上の支障はないばかりか韓国と我が国は国交関係があり、また、交通機関の発達により空路であれば僅か二時間余、海路関釜フエリーによつても半日余りで渡航できるのであり現に多数の内外国人が容易に往来しているのである。
したがつて、かりに相手方が勝訴した場合でも旅券及び査証の交付を受ければ上陸拒否事由に該当しない限り本邦に正規に入国することに困難はないのであるから、送還により回復困難な損害を受けるとは言えないものである。
相手方はこのまま引続き在留する場合に比較すれば送還された場合改めて本邦に正規に入国するために旅券、査証の取得或は旅費の調達等に多少の日時を要し多少の煩雑さをともなうことがあるとしても、それは相手方自身の違法行為以前の原状に回復した結果生ずる事態にすぎず、これらは相手方に限らずすべての外国人に共通に要求される事項であり、また、それにより本邦在留の利益が容易に回復されるものである以上韓国への送還により回復困難な損害を受けるものではないことは明らかである。
〔参考〕第一審決定 (大阪地裁 昭和四九年(行ク)第九号 昭和四九年四月一五日決定 申立人 李撤洙 被申立人 大阪入国管理事務所主任審査官)
主文
被申立人が、昭和四九年三月一二日付をもつて申立人に対し発付した退去強制令書にもとづく強制送還を本案(当庁昭和四九年(行ウ)第二七号事件)判決確定に至るまで停止する。
申立人のその余の申立を却下する。
申立費用は申立人の負担とする。
理由
一 申立人の申立の趣旨及び理由は、別紙<省略>のとおりである。
二 本件申立書及び意見書、ならびに疎明資料によると、大阪入国管理事務所主任審査官が、昭和四九年三月一二日、申立人に対し退去強制令書を発付し、ついで右令書の執行として、同月二〇日、申立人を大村入国者収容所に収容し現在に至つていることが疎明され、申立人が、同年四月八日、当庁に対し右令書にもとづく退去強制処分の取消を求める本案訴訟を提起すると同時に、本件執行停止を申立てたことは当裁判所に顕著である。
三 申立人が主張する本件令書発付処分の適否の点についての判断はしばらくこれを措き、申立人が前示収容所から韓国へ強制送還される事態が生ずるときは-右事態の発生は時日の問題である-申立人の提起した本案訴訟がその目的を達し得なくなることは明白であり、かかる結果の招来を避けるためには、少くとも強制送還部分の執行を停止すべき緊急の必要性があることはいうまでもないから、このような場合は、請求の理由の存否について判断するまでもなく強制送還部分の執行の停止を許すべきであり、かく解することが憲法第三二条の趣旨にも合致するといわねばならない。しかし、収容処分の執行を停止することについては停止の必要性があると認められない。
よつて申立人の申立を強制送還部分停止の限度において認容し、その余の部分を却下し、民訴法九二条を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判官 下出義明 藤井正雄 石井彦壽)